『情報公開が何故いけないの?』

河島 正

全国学力公開がいいとか、よくないとか、文科省と秋田県の意見の相違が 年末新聞の紙面を賑わしていましたね(平成20年12月26日朝日新聞)。
僕は何故、こんなことに神経を使うのか、わからない。
僕が神戸二中の四年生の時(昭和14年)、4年5年共通問題で毎年秋だったか、「実力考査」という試験がありました。当時、中学4年からも上級の高専に入学願書を提出でき、秀才は4年生からもパスして進学していた。
この「実力考査」は定期の学期末試験と違がって、高専の入学試験を模しているから、どこから何が出問されるか全くわからない。
この試験が終わって、暫くすると 成績発表が廊下に長々と出る。1番から全部の生徒の点数が成績順に張り出される。私の従兄弟が1年上の五年にいた。その村田さんも私の後ろの方に並んでいたらしい。らしい、というのは私は他人の成績をそんなに気にしていなかったからだ。
参加者約500人弱の氏名と序列だから、壮観だった。
此は、勿論私たちにとって、刺激の多い掲示だったことは間違いないが、そうだからと言って、個人情報の開示はけしからぬ、とか人権侵害なんて言うやつは一人もいなかった。それは、間違いのない神聖な真実だったし、己を反省し更に叱咤激励し、ファイトを燃やす一助のこそなれ、弊害?なんて夢にも思わなかった。
「情報が独り歩き」する? 「興味本位のおそれ」? 此はいずれも前記の朝日新聞(2面)に載った塩谷文科相談のタイトルだが、その消極性と言い、逃げ腰的態度といい、一国の教育行政を担当するものとしての気迫も信念も感じられない。担当局長の代弁かしら、と疑われます。
世間が物騒になった、なるべく人を見れば泥棒か殺人者と思え、ではないが、世の中がぎすぎすしているのは確か。戦前(昭和20年より前)は過酷な戦争のまっただ中だったけれど、みんなが連帯意識をもち、死なばもろとも的な同胞意識の中で暮らしていました。今は電化生活当たり前、ご馳走がコンビニかスーパーでいとも容易に手に入る、こういう恵まれた物質生活の反面で、何か大切な信頼関係みたいなものが徐々に消えてゆくのが悲しい。大日本帝国でなくてもいいが、もう少し人を信頼し、人と手を取り合って暮らしてゆく、人の世話もするし、世話もしていただく、そんな社会が望ましい、と思うのですが…。