T.K生と称する私は、昭和16年神戸二中を卒業した普通の男でありますが、私の師や先輩、友人には、歴史に名を残す 天下の大人物が少なくない。有り難いことであると思っています。
そういう人、つまり明治・大正に生まれ、世のため、人のために活動した人々の言行や文章を紹介することは、諸兄のためにもなるだろうと、思いまして(ご本人の了解も得まして)掲載する次第です。
*注、神崎倫一氏は、東洋信託銀行、東洋経済新報などの役職を経て、経済研究家、或いはエッセイストとしても活動された。

『思い出の中の「裏切られた人々」』

神崎倫一(こうざきりんいち)

子供の頃読んだ童話に、心にしみ通るようた佳話がある。たしか年老いた牝犬が子犬たちに話してきかせる形である。
若い頃、彼女は盲導犬であった。勿論、そんなシステムはできていなかっただろうが、目の不自由な人が犬の助けを借りるのはよくあったことである。おじいさんと組んで、道ゆく人たちから施しを受ける日々であった。
そのうちに、だんだん疑いを持つようになった。黒メガネをかけているが、実は、おじいさん目が見えるのではあるまいか。自分はそのカムフラージュにすぎないのではないだろうか。
そう思うと無性にハラだたしくなり、ある冬の日、おじいさんを試すことにする。ワザと危険な池の方に引っぱってゆくのだ。だが、おじいさんはニセモノではなかった。池におちこみ、一命はとりとめたが急性肺炎になる。
危篤のベットのわきで、おじいさんの手をなめるのが、せいいっぱいだった。おじいさんは頭をなでながら、
「おまえはノドがかわいていたんだね。水が飲みたかったんだね」
と言いながら息をひきとった。
ーだから、お前たちも人を裏切ると、どんなに哀しい思いをするか、よくおぼえておくのだよ、と。
私の旧制第五高等学校の校長は、添野信先生である。正確には、入学から二年終了までで、三年生、卒業の時は誰かわからない。卒業証書を出してみればわかるのだろうが、そんな必要もあるまい。忘恩の徒とさげすむなかれ。顔を見たことも、声をきいたこともない人を師と呼べますか。第一、その卒業証書だって、各自勝手に生徒課に行って貰ってきたのだから有り難みが薄い。 私の高校第三学年は八幡製鉄所勤労動員の煤煙の中で消える。校長異動を聞いたのは戸畑のストリップ工場であった。なぜ、とその理由を考えるのには、あまりに辛苦の多い日々だった。そんなことを言いわけにしてはいけないけれど。だから校長といえば添野信先生しかいない。
立派な方だった。直接、言葉を交わしたことはないが、黙って立っているだけで何かを感じさせる人だった。当節風にいえば存在感のある人物だったのである。おそろしく寡黙で口下手であった。いや、これは因果関係が逆で、口下手だったから話をするのが嫌いだったのかも知れない。東北なまりが強く、クラスメートで声帯模写の達人、川畑二郎のかっこうのタネになっていた。 昭和十七年の夏、インターハイ(全国高専体育大会)で、サッカー部が奇跡的な優勝をとげたことがあった。
武夫原グラウンドで祝勝式が行われ、全校生徒が整列する前で校長が段にのぼった。どんな祝辞がとび出すか、カタズをのんで見守っているのだが、一分、二分……息苦しくなってくる。
「おめでとう」
やっと出た。しぼらく間(ま)があって、
「私が一番うれしいのは、君たちが優勝した時、あたりまえの風情(ふぜい)でいたと聞いたことだ。勝つことは…いつかできる。だが勝って、あたりまえの風情(ふぜい)でおられるということ、これが五高の精神だ」
文字に書くと百字ソコソコだが、これを強いナマリで考え考え言うのである。感動的であった。
サッカー部のイレブンに私と中学時代からの同級生平畑裕朗がいた。彼は後に海軍予備学生に志願し、B級戦犯となり自殺する。その平畑が偽悪めいた顔をして、
「終了の笛を聞いたとたん、腰がぬけて、本気になれなかっただけさ」
と言った。この時の祝辞で、「あたりまえの風情」が、全校的な流行語となった。だが、それは添野先生をバカにしたのではなく、その無器用さを限りなく敬愛していたからである。
その添野先生をわれわれは裏切った。もちろん、意識してそんなフラチなことをしたのではない。つまらぬ青年客気が先生の晩年を狂わしてしまった。 当時、学校教練に査閲というのがあった。配属将校がどれだけ学生を訓練しているか、現役の高級将校がチェックしようというのである。すでに太平洋戦争は始まっていた。
査閲の意味もはるかに重味を増していたのだが、旧制高校生には、そんなことバカバカしくて、と軽蔑無視する風潮があった。
中野孝次さんが、名作「麦熟(う)るる日に」の中に描いているから、つまみ食いをする。先輩のよしみだ、許して下さい。
「……気負いこんで運動場に少将が現れたとき、学生たちはいつものとおり草の上にアグラをかいて、むろん叉銃(さじゅう)などせずに、ダベったりタバコをふかしたり……。少将はそのありさまを見て激怒し、*F大佐(配属将校)を学生の面前で罵倒した。温厚な老大佐が自分たちの目の前で頭ごなしに叱られるのを見て、生徒たちは憤り、わざとのろのろ、ふてくされた動作をして少将の怒りに油をそそいだ。まずいことに、本来ならすでに来ているはずの校長の姿もなかつた。校長は遅れてゆっくり現れ、怒り狂う少将と並んで台上に立ったが、落ち着かぬふうで、しきりに頭に手をやっていた。太陽の下に立って初めて、禿頭の校長はシャッポ(仏語、帽子)を忘れてきたのに気がついたのだ。そのうち校長はついと台をおりると、小走りに本館のほうへ走っていった。しばらくして彼が台にもどったとき、頭の上にひしゃげたような愛用のソフトがのっているのを見て、生徒たちはどっと笑い出した。査閲の権威も何もあったものではなかった」
事件はこれだけではなく、少将の査閲結果判定の訓辞を弥次ったり、文甲二組の*委員(級長)が帰途についた少将を難詰するといった副産物もとび出すのだが、全体の情景はわかるだろう。 戦時下においてはアルマジキ事件であった。そして軍部の力は圧倒的であった。配属将校は即時後備役編入(クビ)、添野校長はしばらく間をおいて、北満の名もない専門学校長に転出した。もちろん大左遷、懲罰もいいところである。
噂によると、添野校長は淡々と辞令をうけとり、勤労動員でガランドウになったキャンバスを去って行かれたそうだ。
「きっと、あたりまえの風情だったんだろう」
川畑が茶化して言った。そうでもしなければ私たちは、あの老校長の温顔を思い出して泣き出したかも知れない。悲劇は、それが進行している時は誰も気がつかぬ。わずか一日の査閲、それくらいは*ゾル(軍人)の目をごまかすくらいの才覚が、どうして高等教育をうけた学生にできなかったのだろうか。すべては後講釈。できることなら添野校長に、申しわけありませんでしたとあやまりたい。
あやまったって、今更どうなるものではないけれど。
でも添野校長は、
「いいんだよ。君たちは時代に反抗してみたかったのだね。ミリタリズムを無視したかったのだね」
と、おしゃってくれるだろうか。
思えば、戦争は当時の人間すべてに影を落し、運命をねじまげた。時間だけがその傷をいやす処方箋だったのだろう。
東大経済学部の配属将校は岩本中佐であった。武人らしいガッシリした目鼻立ちで、なにかの本で見た大山巌に似ていた。だが、しばらくすると無類の好人物であることがわかり、学生たちは「イワチュウがなあ」と愛称で呼ぶようになった。 イワチュウは軍事学と教練を担当した。 最初の座学の時間、一人一人立って出身高校、氏名を自己申告する。まだ新入生同士でなじみがうすいから、どうしても同じ高校グループがまとまって席をとる。三高が七、八人つづいた時だ、突然、岩本中佐が大声を張りあげた。
「こらあ。貴様たちか。Y少将殿に大変失礼な振る舞いに及んだのは。戦時下を何とこころえている。少将殿はあのような不逞の思想の学生は絶対に許せぬ、とおっしゃっておるぞ」
シンとした。私の一級上の磯辺律男博報堂社長によると、前年は事件直後だっただけにもっとキビしく、五高出身者は一人一人教官室によばれ、このままでは学校教練認定で、士官適、いや下士官適の証明すら出すわけにはゆかぬ、とオドかされたそうだ。
ここでスックと、クラスメートの浜田正義(後年、弁護士となる)が立ち上った。後に経済学部出身のくせに検事になったくらいだから度胸がある。昂然と反論をのべた。本人は一世一代の大弁論だったというのだが、九州弁で半分くらいしかわからなかった、と東京出身者から言われた。
要約すると、
「いかに上官から指示されたからといって、先入観を以て学生を威圧するのはどんなものか。双方の言い分を聞かねば公平といえないのではないか。また、一日だけの査閲で思想ウンヌンは軽率にすぎないか」
満面、朱をそそいでいる。どうなることかとカタズをのんでいたら、意外や岩本中佐が折れた。
「思想についての発言はとり消そう。諸君(貴様が諸君になった)の大学における実績を客観的に判定することにする。実は」
と声をやわらげて、 「わしも熊本の連隊にいたことがあって、君のなまりがなつかしい」
浜田も着席した。
「だがY少将は今、西部軍管区から東部にこられておるぞ」
あの執念ぶかさではやりきれぬ。石にかじりついても海軍に逃げよう。もっとも、『潜水艦西へ』(一九四〇年ドイツ映画)の主題歌ローゼマリーの歌詞のように、ゾルダーテン・ズイント・ゾルダーテン(軍人は軍人)だろうけれどね。
岩本中佐の軍事学は大本営発表をウノミにしていて、しばしばシラけさせた。台湾沖海空戦で致命的大打撃を受けた時も、
「戦争はもうすぐ終るな。米国の空母は皆、沈んだようだ。そしたら提灯行列だな」
なにがチョーチン行列ですか。連日のB29の空襲、召集令状で歯がぬけたようになった教室。入学時の三分の一も残っていないのだ。浜田も征った。
皆の反応がないので、テレた時のくせで大きな掌で顔をなでてクシャクシャにした。
「オレ、おかしなこと言ったか」
憎めない人柄だった。
たしかに、それから間もなく戦争は終った。職業軍人はすべて追放され、岩本中佐は習志野の奥で開墾事業をすると引っこんだ。軍人恩給もなく、中年からの帰農、大変なことであっただろう。
昭和四十年もすぎて、皆なんとなく落着いた頃、大学の同期会で岩本中佐を招待したらという話が出た。なつかしかった。連絡すると、ぜひ行きたいと返事がきた。
当日、電車を乗り継ぎ乗り継ぎして到着した岩本中佐は、すっかりしなびた好々爺になっていた。大きな西瓜を二つブラ下げていた。今年は豊作だったそうだ。
「その折は戦争中とはいえ、皆さんの勉強の邪魔をして申しわけなかったと思っております……」
語尾は弱々しく涙ぐんでいるようだった。
「中佐殿の西瓜ば、うまかばい」
快男子浜田正義である。戦争はなにか遠い遠い昔のことのように思えた。


注、5頁*F大佐(深草大佐のこと)
6頁*二組級長(阿佐見彰氏)
7頁*ゾル(ドイツ語で軍人をゾルダーテンというが当時の高校生たちの軍人に対する蔑称)
本稿は、「新潮45」(昭和63年11or12月号に神崎氏が発表したものを、同級生浜田正義が紹介したもの、文中、氏が「検事」となっているが、「判事」の誤りの由。