『人間の運命と修行するということ』

河島 正

大正13年3月に生まれて、85年。よくも、恥ずかしいことを多くやりながら、ここまで生きてきた…と思います。
金銭運には結局恵まれなかったけれど、生命運は強い方だったと思う。今までに、何回も死ぬような目に会いながら、目に見えぬ大きな力のおかげを受けて参りました。
最初は、熊本陸軍予備士官学校で阿蘇山の実弾射撃演習に参加したとき。勿論、兵舎の中だから少々の怪我で不参加は許されない。左足の踵(かかと)が靴擦れで破けていた。軍靴が包帯のため入らぬから、ゴム製の右左区別ない営内靴(エイナイカ)を履く。それで、阿蘇まで15時間の強行軍。馬に聯隊砲を引かせ、兵は馬に合わせた早足。1月末のことだから、山中の雪が営内靴に入ろうが、どうしようが気になどしておれない強行軍。夜10時、宿泊施設に入ったとき40度の高熱でグロッキー。
踵のぱくっと開いたキズ口から、ばい菌が入ったものか、スネまで膿みが上がって腫れて居た。軍医の診断で「直ちに入院」の命令。その夜の内にトラックで熊本の陸軍病院へ運ばれた。高熱で意識不明だったのだが。
「皮下蜂窩織炎(ヒカホウカシキエン)」という病名だった。手術後、暖かい病室で2ヶ月の入院。同僚はすぐ近くの営舎で銃剣術の寒稽古というのに、病室で「班長どの」(階級は伍長)におさまって、見舞いに来るひとのお裾わけにあずかっていた。
2回目は北アの山中。昭和52年7月29日夜行で上野を出て、翌朝富山駅から 有峰口へ出てバスで折立へ。am9:30歩き始め、その日は太郎平小屋泊。翌日から翌々日にかけて薬師沢を登り雲の平、祖父岳-ワリモ岳-鷲羽岳を縦走し下って川へ出、湯ノ俣小屋へ行く途中のことだった。(いつものように身軽な単独行)
pm2:30頃から急激な豪雨になる。川は幅40メートルぐらい、浅いから渉るのはなんでもないが、行く手の向こう岸は、崖から大きな石や小さい石が大音響を伴いながら降っている。幅20メートルぐらいの崖崩れである。困った、どうすべきか、相談する人や仲間は誰一人いない。今から分岐点に戻って小屋に入るということも考えたが、時間はpm4時近い。とても引き返す余力がない。向こう岸に渉らないことには、湯ノ俣小屋に行けないのだ。じっと睨んでいたが、(今だ)と思って大音響のやまない崖崩れの中にまっしぐらに飛び込んでいった。とにもかくにも、向こう岸にたどり着くしかない、という思いしかなかった。かすり傷ひとつない、無事だった。それから、30分後夕暮れの小屋に着き、水浸しの登山靴を脱いだ。 あとから考えたのだが、単独行だったから、思い切ったことが出来た。友人と二人だったら、とてもこの決断は出来なかっただろう、二人とも無事にたどり着く格率は4分の1しかない、誰かひとりでも災難にあえば、無事に小屋に着けなかっただろうし、おそらく雨の中で野宿を選ばねばならなかっただろう。
3回目は、昭和54年1月2日正月休みを利用した北岳(八ヶ岳連峰)登山のとき。小屋に1泊して翌朝頂上に登ったが、雪に覆われた頂上から流源寺橋(蓼科温泉入り口)の方へ下る下山道が、積雪のため全くわからない。こういうときは、慎重に斜め斜めに道を辿るべきだが川筋がすぐ下に見えるので油断した。それほど急な傾斜でないと、近道のつもりで真っ直ぐ降りた、とたんに脚がすべって尻餅をついたまま滑走し始めた、容易に止まらず加速度がついたので、これは危ないと脚を広げて立木をねらった。運良く1本に脚がからんで上体がさかさまになって止まってくれた。九死に一生というところだった。それから、座ったまま、ゆっくり下りた。
ほかにもいろいろある。女房に言わせると、私は9回も入院したそうだ。難聴を治す治療だといって難しい耳骨を削る手術をしましたし(結果は効果なし)、猛烈な腰痛でレントゲンで調べたら髄骨の中を通る神経がズタズタ、飛び出した腰椎の一つをカスガイで止めるという難手術て治療した。65歳の時。夫れが治ってからまた、北アの鑓が岳に登った。
有り難いことに、すべて無事に今日を得ている。
いろいろ、勝手なこと、好きなことを傍若無人にやってきたものです。顧みると誠に恥ずかしい。30代以前にやって、後の人生の反省資料にするなら良いのですが、私はおのれが自覚する以上に(オクテ)なのです。「オクテ」は晩熟、晩生とも書く。若いときから、つねに5歳は若く見られた。そのせいか、80歳過ぎてから、仏教や儒教、文学が面白くなった。何が幸いするか人生はわからんものです。つまり、修行というものは、いい意味の前進欲というような気を持ち続け、それがいつまでも身体の中で活溌に巡っているということ、…じゃないか と思っています。 私の家には仏壇のほかに、毎日供養、礼拝するところが 2カ所ある。1カ所は神棚でそこに「宇宙創造大神(ウチュウソウゾウオオカミ)」がおられるし、もう1カ所には梵天様、つまりインドのプラーフマンを祀っている。プラーフマンはビシュヌ神(維持・継続の神)、シバ神(破壊の神)と並ぶ創造建設の神様。これは私の五高ボート部の先輩でもあり、修行上の師匠でもあった栗山奉行さんの夫人(滋光さん)が神木から刻みだしたもので、私に下さった。京都から横浜の自宅に運びまして、しかるべき場所にご鎮座願いました。ところが、昔人形づくりが好きだった女房が、ただの木像ぐらいにしか理解せず、お供えを怠った。
ところが、暫くして突然、栗山さんから手紙が来て「おまえがお祀りしないなら、すぐ返せ」というお叱り。あわててお詫びをし、きちんと背屏風もあつらえ、朝晩のお供えと礼拝を欠かさぬようにしました。霊が入魂した神仏はえらいものなのです。 私のような愚か者でも、50歳にして次男の困難な病気(精神病)に遭い、命に替えてもこの病気を治したい、いや治さずんば非ず…の決心で諸子、諸先輩を訪ね、神道でも仏門でも、良いと言われることはすべて実行した、水行はおろか、群馬県の天狗山、身延の七面山など病気平癒に良いと言われるところへ何回も通って祈願しました。
しかし、結果は失敗したのです。私の愚かな選択が結果的に(本人の自死)に繋がりました、そのとき始めて気がついたことは、(神に祈る)と言うことはどういうことか、ということです。
大抵の人は神社やお寺に参って(祈願する)という。夫れは、ほとんど願いを聴いて欲しい、つまり勝手なお願いを僅かなお賽銭で聴いて欲しい、ということでしょう。此が間違っている、と初めて気がついた。
神仏はその慈悲や功徳で、恵みを下さる…というのは、私たちの全く勝手な希望であり、思いこみにすぎない。己の身が清く清浄になって、いうなれば無心にちかい心境になって初めて、神仏と気をかわす、神仏から何らかの(ちから)をいただける、ということじゃないか、と。
そのためには、(お願い)じゃなくて(感謝のこころ)が前提になければならない、と。
次男の宏が、焼身自殺を遂げたのは、私が63歳の時です。それから、20年、やっと多くの坊さんが言うことを理解できるようになりました。信仰も理解し実践出来るようになりました。霊界のこともわかるようになりました。遅々たる歩みですが、有り難いことと思っています。