担板漢

河島 正(29陽会)

神戸二中の四年生の時だった。ツルさんこと真鍋鶴吉教官から友人の西河直と二人呼び出されて、兵庫の八王寺でやっている座禅会に行くように奨められた。別段悪いことをしたわけでない、教射の二人に好意を持って言ったことらしい。
二人は素直に行くことにした。夕食後、私は和服に着替えて袴を着けて出る。山陽電の兵庫終点から歩いて五分。八王寺は曹洞宗の修行道場として当時有名だった。空襲で全焼したが後再建し、曹洞宗の名門道場として今でも活動している。
小学生の頃元町三丁目に住んでいたので、朝早くから元町通りを「おーう、おーう」と独特の呪文?のような読経を唱えながら、墨染めの衣に わらじ履きで、雨でも雪でも数人が列を作って歩いている姿を見ていました。
西河は二,三回ですぐ座禅会を止めたが、私は続けた。続けたには訳がある。同じ座禅会に参加する三,四十人の老若男女の中にひとり、とても美しい妙齢の婦人が居た。二十歳ごろであろうか。思春期の少年にとり、形容しがたいほどの魅力だった。彼女の美しい横顔をひと目みたい、それだけが目的で欠席しなかった。
座禅会は始め、うす暗い座禅堂で三十分ぐらい座禅した後、明るい座敷に移って「無門関」の講義がある、そのとき、一生懸命に彼女の姿を探す、ああ来ているな、とわかると安心する。いくら探してもいない時は、がっかりした。
中学四年は昭和十四年である。支那事変は続いており、「非常時」のかけ声こそあれ、まだ物資は豊富で、生活は穏やかだった。 「無門関」の講義のなかで二つだけ今でも覚えている言葉がある。「得不得在吾」、得ると得ざるとは吾に在りと読む。此は努力主義と自己責任の言葉として長く私の心を支配した。子どものことだから、浅い一次的な解釈だったとおもうが。
もうひとつは、「担板漢(たんばんかん)」というもの。市中を大きな板を担いで歩く漢(おとこ)がいる。右の肩に担いだとき、左は見えるが右は見えぬ。左の肩に担いだときは右だけしか見えぬ。つまり、前方と一方の側だけを見る男が冒す過ちを注意しろ、と言う教訓。当時はこれを即物的にしか理解できなかったとおもうが、今にして大きな哲学的教訓と思う。多くの人が自分の知り得た世界だけで満足し、是認し、それだけで世の中がわかった気になる。実は別の側がある、別の考え方もあるということに気がつかない。これは、一種の傲慢の始まりである。
今でも大会社の重役、どこそこの名誉顧問として功なり名をとげた人の講演や著作を拝見して思うことだが、このひとが得々として語ることば、たとえば「誇れる國、日本」の内容が、ある方面に偏っているのでなかろうか、別の見方もあるのだがなア、と感ずることがある、円満で客観的な表現のむつかしさを思うことである。

平成20年11月1日